賑やかな階下の住民が引越した。彼らは三人家族で、先月7月一杯で慌しくこのマンションを去ったのだ。ボクら夫婦の住んでいる3階の真下に当たる20X号室に、彼らは住んでいた。
小学3年生くらいの女の子が一人。奥さんは30代後半で、何かに怯えるような眼差しで挨拶をする。すれ違った時、一目で分かるほどアトピーを患っていて、いつも猫背で早足で歩く。旦那さんは、奥さんと同年代で、ガス工事の請負の会社に勤めているという話だ。それは、このマンション入居時に大家の婆ちゃんから聞かされた情報である。小柄な体格に見合わず、ひと際でかい声を出す80代の大家の婆ちゃんにとって、プライバシーという概念は恐らくない。
三人家族は、引越し準備期間中、深夜に家具を引きずる音を出したり、時折乱暴に壁を叩いた。引越し以前にも、物騒な夫婦喧嘩の怒号もあったし、ポルターガイストのように部屋の何かが飛来し激しく床に落下する音や、不機嫌に部屋のドアをバタン閉める耳障りな音も聞こえたこともある。明らかにボクらの静穏権が侵害されていた。突然夜中の11時過ぎに、子供がリコーダーを吹くこともあった。ボクら夫婦は顔を見合わせて「あ、笛の音。また例のヤツが始まったかぁー」と落胆したものだ。小学校の授業で教わる、いかにも音楽の教科書に載っているようなありきたりの児童向けの曲だ。もしかしたら、妖怪ウォッチとかその手合いのアニメの曲だったのかも知れないが、曲名は分からない。
一度吹き始めたリコーダーは、直ぐには鳴りやまず、1時間くらいぶっ通しで、しかも切れ切れに同じフレーズを吹く。下手クソでメロディーは覚束ないし、同じフレーズの為に、ボクらは魔の旋律ヘビーローテーションに陥る。騒音をやり過ごしたいのに、むしろ強固に意識してしまい、そのいびつで幼稚なサウンドにボクらの耳が囚われて翻弄された。その間、他の事が手につかなくなり、大して観たくもないテレビのニュース番組のボリュームを少し大きめにしてつけたりしてやり過ごす。
とにかく喧しい家族だった。恐らくその女の子は、家庭内の複雑な事情が、息苦しくて大分ストレスが溜まっていたのだろう。ちょっと不憫には思うけど、夜中にリコーダーを吹かれるというのは相当気分が悪い。
8月になり、三人家族がいなくなった今は嘘のように長閑になった。まるで、台風一過のように階下は静寂に包まれている。台風といえば、去年の秋ごろに台風が来て、その階下の部屋が雨漏りをして大騒ぎになったことがある。拙宅に雨漏りの手がかりがあると睨んだ大家お抱えのリフォーム業者が、数日間拙宅に押し寄せた。原因究明に床に30cm正方の穴を開けたり、エアコンの室外機の排水ホースのパテを上塗りしたり、ベランダのコーキングを派手にやっているうちになんとか雨漏りは収束。結局、決定的な原因は不明だったが、大家とその家族は家賃を巡って少し揉めていたようだ。雨漏り騒動は、三人家族にとって大家との折衝の強力な切り札だったのかもしれない、と今になって思う。
後日、拙宅に迷惑をかけたことで、ボクらへ大家の婆ちゃんが挨拶に来たいといって電話があった。そういう堅苦しいのは御免なので固辞したが、ごり押しされて渋々了承する。婆ちゃんがやってくるというその日、ボクらはたまたま野暮用で出かけていたので、結局会えなかったが玄関のドアノブにスーパーの白いレジ袋がだらりとぶら下がっていた。大家の婆ちゃんの仕業だ。あの歳で、わざわざここまで歩いてきたワケだ。足が悪いのにご苦労様。
袋の中に入っていたのは、悄然とした6個のハウスみかんだった。なんだみかんだったのか。なるほど。大仰に挨拶に来る、というので、てっきりどこぞの老舗の菓子折りか何かを持参してくるのかと思っていた。なんの変哲もない普通のみかんが、酷く申し訳なさそうにレジ袋に入ってるのを見て、沸々と笑いが込み上げてくる。これじゃあまるで、学生時代の差し入れみたいじゃないか。部活かよ。子供の駄賃じゃあるまいし…。その後、少ししてから大家の婆ちゃんからボクの携帯に電話があって、少しだけ話した。
手土産であるみかんは、婆ちゃんが長年行きつけにしているお気に入りの果物屋のみかんであるらしい。それがいかに特筆すべきみかんなのかを大声で力説していたが、ボクは笑いを堪えるのに必死だった。みかん6個にしては、随分ご大層なプレゼンだった。後日、そのみかんをボクら夫婦で有難く頂いたが、呆れるほど本当にフツウのみかんで、実際本当に呆れた、といってもいい。だが、大家の婆ちゃんにとっては誰に恥じることのない値千金の「千両みかん」なのだ。
三人家族が引っ越しをする前、その奥さんは、ママ友達とマンションの1階の玄関付近で、ほぼ毎日井戸端会議をやっていて、しかもやりだすと1時間くらいオバサン達の騒がしい噂話が3階の拙宅までよく聞えてきた。ママ友は3人の時もあれば、2人の時もある。買い物かごをマイバッグでパンパンにした電動アシスト自転車を傍らに停めて、取りとめのない主婦同士の不毛な会話が続く。
昨今、ママ友いじめを苦に自殺も珍しくない世の中だ。奥さんは奥さんで、家庭外と家庭内でやりきれない諸事情があったのかもしれない。ともあれ毎日井戸端会議をされるこちらとしては、うるさくて閉口した。三人家族の引っ越しは、それら一切合切を葬り去ったのだ。願わくば、次にその部屋に住む住民が平穏な人たちであって欲しいと節に思う。
8月の中旬の週末、いつもより少し遅めの起床をして寝起きの頭でボーっとしていると、誰もいないはずの階下から、あの下手クソなリコーダーの音が聞こえてきたのだ。ボクは一瞬耳を疑ったが、隣で寝ているボクのワイフを揺さぶり起こし、階下を指して「リコーダーの音聞こえる?」と小声で訊いた。寝ぼけ眼のワイフは、やにわに覚醒し「あ、聞えるねぇ」と応える。いるはずのない女の子が、まさに今、階下でリコーダーを吹いているのだ。
「ひょっとして、女の子は引っ越ししたくなくて、生霊がまだ住んでいるのかも」ボクはワザと深刻な表情を作って見せる。というか少し怖がりのワイフを悪戯で、脅かそうとしてしていたこともあるーーー。けれども一体、この笛は誰が吹いているのか? ボクは理解に苦しんだ。
意外にもワイフは落ち着いていた。「もし生霊なら、気のすむまでリコーダーを吹かせてあげたらいいじゃない。きっと夏休み中の引っ越しで、友達にもお別れが言えてないんだよ」遠い目をして、ワイフはそう云う。そして、フェイドアウトするように二度寝を貪り始める。まるで嗜眠症みたいに。ボクは、しばらくの間、得体の知れないリコーダーの音が消えるまで、真っ白な天井をぼんやりとただ見詰めていた。